乃梨瞳朝チュン企画〜あの後何にも無いはずない!〜へ戻る
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『錨泊地 ―anchorage―』


 どうした弾みか、松平瞳子は夜半にふと目覚めた。

 瞳子の意識は緩やかに覚醒していく。
 規則正しく秒を刻む時計の音。「茶色」の明かりの中におぼろげに浮かび上がる室内。
 そして瞳子は漸く、自分を包む暖かな温もりに、優しい香りに気がついた。誰かが瞳子のすぐ傍に、寄り添うように傍に、いる。
「ああ‥このせいで起きたのかしら。‥暖かいわ、ママ」
 瞳子はそんな風に自分に接してくれるただ一人であるはずの人に語りかける。
「でもママ、もう瞳子は子供じゃないから。それに‥今の瞳子にママに抱っこして貰う資格なん‥て‥抱っこ?」
 ぼんやりとした思考がそこまで辿り着いた所で、瞳子は飛び起きた‥と言っても、意識が一気に覚醒しただけで、幸いにして、実際の動作として飛び起きた訳ではなかった。

 右向きに横臥していた瞳子の目の前は、ぼんやりとした白い斑点が散らばった水色で塞がれていた。次第にはっきりと焦点を結ぶ視野の中で、それは水色の布地を飛び跳ねる白兎の群れに収斂する。
 瞳子の頬に柔らかな感触を与えて息づいていたその正体は、二条乃梨子のパジャマの胸元だった。しかも乃梨子の左手は瞳子の右肩と枕の隙間を通って瞳子の左肩を抱いていて、乃梨子の右手は瞳子の体の上を越えて背中越しに瞳子の腰へと回されている。
 早い話、瞳子は乃梨子の胸元にしっかとばかりに抱き寄せられていたのだ。幸いにして‥と言うか、当然と言うべきか、瞳子も乃梨子も寝間着をきっちり着込んでいる。ちなみに瞳子が着ているのは、乃梨子から借りた薄桃色の地に白兎のお揃いの柄のパジャマ。

 パニックを起こしかけた瞳子は、悲鳴を上げる寸前に、辛うじてこの状況に陥るまでの経過を思いだした。自分が寝ているのが乃梨子の下宿先である事、別室とはいえ、程近い場所で乃梨子の大伯母である二条菫子が就寝中である事、そもそも現在の状況は自分が招いたという事など‥。
 今の時点で乃梨子や菫子を起こした場合の事態の紛糾に鑑み、悲鳴を超人的な気合で押し止めた瞳子は立派と言うしか無かった。

 息を殺し、自分の動悸が静まるのを体を硬くして待っていた瞳子の耳に、微かだけど穏やかで健やかな寝息が聞こえてきた。
 瞳子は乃梨子を起さないように少しだけ体を離して、乃梨子の表情を垣間見た。薄明かりの中で見る乃梨子の寝顔は昼間の超然として大人びた印象(最近かなり崩れているが)と違ってあどけない程に幼い。
 瞳子には乃梨子が微かな笑みを、いつも瞳子に向けてくれる優しい微笑を浮べているように見えた。

 乃梨子の顔を見つめる瞳子の中には、恥ずかしくていたたまれない様な、切なくて泣けてきそうな暖かさが満ちてくる。
『乃梨子に‥縋らせて貰ったのでしたわね』
 昨日の午後、自分の犯してしまった過ちの重さに耐え切れず蹲(うずくま)ってしまい、為す術も無く、数を数え続けていた瞳子に、手を差し伸べてくれたのは乃梨子だった。瞳子はその手を握り締め、叫び続けた。
「乃梨子! 乃梨子! 乃梨子! 乃梨子!」
 乃梨子の事を敬称無しで呼ぶのは入学以来初めてで‥そんな風に乃梨子の名前を呼ぶたびに、瞳子は自分の心を厚く覆っていた瘡蓋(かさぶた)が一つずつ剥がれ落ちていくような気がした。
「瞳子ったら」
 瞳子の振舞いに驚きと戸惑いを隠せない乃梨子は、曖昧に微笑んで瞳子の手を握り返した。その瞬間、瞳子の心から瘡蓋の最後の欠片が落ちた。
 まだ癒えていない傷口を晒してしまう事への恍惚と、自らを凝(こご)らせていた何かから解放された事による怯えが溢れ出し、瞳子の心を揺らがせる。
 揺らいだ心に引き摺られて足元が覚束なくなった瞳子は乃梨子に縋りついた。
 乃梨子は瞳子を抱えるようにして立たせ、その肩を抱いたままゆっくりと歩き出した。

 瞳子に尋ねたい事が恐らく小山ほどもある筈なのに、乃梨子は『なぜ?』とも『何を?』とも聞かなかった。その替わりなのだろうか、穏やかな口調で、授業や宿題や掃除や‥日常のあれやこれやをぽつりぽつりと話しかけるとも無く話し続ける。
「佐久間先生の今日の脱線も凄かったよね。私、高校でシュヴァルツシルト解を勉強するとは思わなかった」
「そうそう、物理のレポートのまとめだけど。可南子、週末は用があるから、月曜日の放課後からにして欲しいって」
「寒くなると外周りの掃除は辛いよ。大体リリアンの制服って中間期しか考えてなんじゃないかなあ。だからといって、コートを着て掃除する訳にもいかないしさ」
 瞳子には乃梨子が答えを欲しているとは思えなかった。だから自分からは言葉を返そうとはしない。
 ただ乃梨子の落ち着いた声に耳を預け、暖かい手に身を委ねているうちに、覚束なかった瞳子の足どりは、次第にいつもの軽快さを取り戻していく。こんな時だけ乃梨子に縋ってしまう自分に微かな嫌悪を抱きつつ、それでも瞳子は乃梨子と離れる事が出来ないまま、歩き続ける。

 いかに生徒同士の仲がいいリリアンとはいえ、恋人の様にぴったりと寄り添って歩く二人の様子はやはり人目を引く。囁きを交し合う生徒たちの間を俯き加減にすり抜け、マリアさまへのお祈りは片手だけで勘弁してもらい、二人は足早に校内を立ち去った。
 そして、正門を出た所で乃梨子はタクシーを拾うと、有無を言わせず瞳子をその中に押し込んだ。もっとも瞳子も特には抵抗しなかったが。

 乃梨子の下宿先近くのファーストフード店で車を降り、昼食にパンチェッタとモッツアレラのパニーニサンドとカフェ・ラテを二つずつ、プラカップ入りのルッコラのサラダにチャンボッタ、それからビスコッティを一袋買い込む。勿論割り勘で。
「お昼を無理やりつき合わせるのに、ごめんね。この借りは自分で稼ぎ出したら必ず返すから」
 そう言って、乃梨子は瞳子に下手なウインクをした。らしくない乃梨子の様子にちょっと退きながらも、瞳子も調子を合わせ澄まし返った表情で答えてみせる。乃梨子の冗談に付き合えるほど回復している自分に戸惑いつつ‥ではあるけれど。
「構いませんわ。二人ともまだ子供ですもの。奢ったり奢られたりは早いですわよ。でも‥」
「でも?」
「大人になるまで、瞳子は乃梨子とお付き合いを続けないといけませんの?」
「‥かっわいくないなあ」
 わざとらしく顔を顰めてみせる乃梨子に少しほっとした瞳子は、普段なら殆ど無意識に使いこなしているちょっと意地悪な微笑を、多少の無理をして浮べてみせた。

 乃梨子の部屋で遅い昼食を摂る。実は瞳子は、とても物を食べる気になんてなれないと思っていた。でも、ファーストフード店の会話の後、乃梨子の話には瞳子の返事を促すような内容が増えてきた。
 乃梨子が選んだ話題は食事に端を発した各地の名物やそれに派生した各地の名所といった他愛無い事ばかりだったので、瞳子も安心して乃梨子とのおしゃべりを楽しむ事が出来る。
 瞳子も心理的にはともかく、身体的には健康な育ち盛りの十代の女の子だから、土曜の午後にお腹の空いていない訳がない。リラックスした会話の合間についつい食べ物に手が伸びて‥そしてふと気付くと、瞳子は不思議なほど楽々と昼食を平らげてしまっていた。

 (間違いなく乃梨子の努力による)乃梨子と過ごす日常が、自分を普段の状態に戻してくれつつある事には本当に感謝しなければいけないと解っている。でも瞳子は忸怩たる思いを抱かずにはいられない。
『思ったほど、私は堪えているわけではないのでしょうか。祥子さまや祐巳さまにあんな酷い事をしておきながら‥』
 同時に瞳子は心のすぐ裏側の何処かで後悔と疑問が渦巻いているのをずっと感じていた。
『祐巳さまは何もご存じなかった。でも、もし同情でないのなら‥なぜ祐巳さまは私なんか‥私‥を妹にしたいって仰ったのかしら‥』
 それでも瞳子の心の表面は乃梨子との会話を楽しげに続けている。
 心の表に飛び出して、瞳子を呑み込もうとする循環思考の螺旋から逃れるため、乃梨子が演じている何の齟齬も無い日常に縋って、瞳子自身も演技を続ける。

 昼食後、せっかくだから来週提出する物理の実験のレポートを片付けようという事になった。
 実験時の班毎に提出しなければいけないので、もう一人の班員である細川可南子無しで完成させる訳には行かない。しかし実験結果を整理しておくだけでも後の作業がかなり楽になるはずだ。(孤立気味の瞳子と友達付き合いを続けているせいか、乃梨子と可南子はクラスに置ける各種の班分けの際、大体において瞳子とセット扱いされる)
 二人がレポートに夢中になっていると、夕刻近くに家主の二条菫子が帰ってきた。菫子は開け放ってあった乃梨子の部屋の襖から顔を覗かせると陽気な調子でふたりに声を掛けた。
「ただいま、リコ。おや、お友達かい?」
「おかえり。留守中勝手に上げてごめんね。同じクラスの‥」
「あー、ちょっと待って」
 瞳子を紹介しようとする乃梨子を押し留め、額に手を当て、目を瞑って暫し沈思黙考した菫子は、やにわに喜色満面の顔を上げ、誇らしげに自分から自己紹介を始めた。
「そうそう、松平‥松平瞳子さんだね? 始めまして、乃梨子の伯母の菫子です」
 以前の乃梨子との会話でちらっと出てきただけの固有名詞を思い出せたのがよほど嬉しかったのか、菫子は乃梨子に「褒めろ」と言わんばかりの自慢そうな視線を送る。この手のパターンには慣れっこな乃梨子は平然とやり返す。
「またそうやって若さをひけらかそうと‥第一、大伯母でしょ」
「いちいちいいだろ! 細かい事は」
「あ。は、始めまして‥あの、大‥伯母さま?」
 瞳子が戸惑い気味な挨拶に続けて、菫子に『大伯母』と呼びかけると、やや憮然として菫子が答えた。
「‥大伯母よりは、『菫子さま』または『菫子さん』と呼んで貰えると嬉しいがね。リリアンの流儀に則って」
「はい、その‥菫子さま。あの、私の事をご存知なのですか?」
「リコの同級生だろう? 瞳子さんの事は時々リコの話に出るからね。で、あなたがそうだって特定できたのは‥何よりその古風な髪形が決め手かねえ」
 瞳子は慌てて縦ロールに手を添えた。そんな瞳子を見て、菫子が笑いながら畳み掛ける。
「私がリリアンにいた頃でも余り見なかった髪型だしね‥。でも瞳子さんにはよく似合ってる。可愛いよ」
 直裁な褒め言葉を受けて瞳子は恥ずかしげに頬を染めたが、菫子のあっけらかんとした様子に微笑みも誘われてしまった。そんな瞳子の反応を見て、菫子は(なぜか)満足げな笑みを浮べる。

「そうそう瞳子さん。こっちに来て一緒にお茶をしないかい。アンリ・シャルパンティエの新作を買ってきたんだ。大体、リコの部屋じゃ落ち着かないだろう」
「何言ってるかな、菫子さんは! そういう美味しい話については、まず可愛い姪孫(てつそん)を誘うもんじゃないの? それに落ち着かないって‥私の部屋は瞑想室みたいなものじゃん。大体、これだけ仏像に囲まれているのに心の平安を得られないなんて、菫子さんってよほど心にやましい所があるとしか‥」
 アンリ・シャルパンティエの新作のせいでないとは言い切れないが、多少の本気を込めて乃梨子が抗議する。一方、菫子は‥と言えば、毎度毎度のじゃれ合いのパターンを踏襲して、平然と諺を引用しつつ、落ち着いた調子で乃梨子に反撃する。
「『過ぎたるは及ばざるが如し』って言ってね、こう四方八方から見詰められたんじゃあ。よほどの無神経でもない限り、仏さまに色々見透かされそうで落ち着かないがね」
「それ、私が無神経って言いたいの? 普通、『清らかな心の持ち主』とか言わない?」
「こんな時は第三者の意見を聞いてみるのが妥当じゃないかね。瞳子さん、瞳子さんはリコの部屋で心安らかに過ごせるかい?」
「ええ‥まあ、その。あのう‥」

 瞳子が言い淀むのも無理は無い。レポートに集中していた時はそれほど気にせずに済んだが、予想通りというか、予想以上というか、乃梨子の部屋は仏像や仏教関係の書籍、画集、雑誌、ムック類はいうに及ばず、ナショナル・ジオグラフィック・ジャパンの仏教美術DVDシリーズ(全巻揃っている)、TV番組を録画したらしいビデオやDVD、かなり値の張りそうな仏像のレプリカから食玩の仏像シリーズまでもが部屋のいたる所に並べられ、積み上げられている。
 その上、壁や襖には、乃梨子が訪れた寺で買い集めたものらしいポスターが所狭しと貼ってある。ポスターには東寺だの興福寺だの寺名が墨跡風の重厚なロゴで入っていて、メインの図柄は当然、仏像の大アップだ。
 確かに仏像の表情は基本的に慈愛に満ち温和である。だからといって無慮百万(は大袈裟だが)の仏像の視線が交錯する空間は、普通の人間にとっては、むしろ居心地が悪い。
 ましてや、心に蟠(わだかま)りを抱えている瞳子には、あまり過ごし易いとは言えない環境だった。
 さすがに、所々に置いてある写真立てには、一般のリリアンの生徒らしく乃梨子のグラン・スールである藤堂志摩子の写真が飾ってある。でも、『この状態だと、大抵の人間は寧ろ写真立ての存在に違和感を覚えかねないのではかしら』と瞳子には思えた。

 菫子は『我が意を得たり!』と言わんばかりの態度で、瞳子の肩に手を掛ける。
「そうだろ、そうだろ。さあさあ、瞳子さんはこっちの部屋で、私と美味しいお茶とお菓子を楽しみながらリリアンの話でもしようじゃないか」
 行き掛かり上、乃梨子も少々むきになり、瞳子を抱く様にして引き離すと、菫子に言い放った。
「邪魔しないでよ、菫子さん! これから瞳子に秘蔵の仏像画像を見せるんだからねっ。ネットで苦労して収集したマニア垂涎の逸品揃いなんだよ」
「そりゃ、あんたにゃそうだろうさ‥何度も言っているけど、リコ。それ、マニア以外の人間には拷問に等しいって事分っているのかい?」
「そんなこと無いよ! 志摩子さんはいつも『とても興味深いわ、乃梨子』って楽しんでくれているもん」
「社交辞令って言葉を知らないのかねえ、最近の若い子は? しかし、志摩子さんもまあ‥そこまで付き合わなくても‥。リコ、あんた、志摩子さんが来るたんびに鑑賞会につき合わせてるんだろ。そのうち呆れられてロザリオを突き返されなきゃ‥」
 そこまで言いかけて、菫子は言葉を濁した。巧みに隠そうとはしていたが、それでも『ロザリオ』という言葉を聞いた途端、瞳子の全身に緊張が走ったのに気がついたからだ。
 不自然でない程度の間を空けて、菫子が話の方向転換を図る。
「その事はおいといて‥。まあ、仕方無いかな‥リコも込みでお茶に招待する事にするよ。素直に受けちゃどうだい」
 ここで、『素直に受けて欲しけりゃ、素直に誘えばいいのに』と言い返すのが、いつもの菫子と乃梨子のじゃれ合いのパターンだ。しかし、乃梨子もまた瞳子の様子に気がついていたので、ここは菫子の誘いに素直に応じる事にした。
「瞳子、ほかの事はともかく、菫子さんのお菓子の選択眼は信用できるし、紅茶の腕前は折り紙付きだから、一休みしてお茶をご相伴しようよ」

 乃梨子と菫子に挟まれるようにして居間へと向かいながら、瞳子は今日の乃梨子との会話をひとつひとつ思い出す。
 乃梨子は確かに学生生活の悲喜交々を話題にしていた。しかし今考えると、リリアンの生徒としては不自然なほどスール、またはスール制度に関する話題を慎重に避けていた。
 瞳子はそうした乃梨子の配慮について、菫子から『ロザリオ』という言葉が出るまで気がつかなかった。
『乃梨子は、以前からこんな風に私に気を使ってくれていたのでしょうか。私が私の悩みだけにかまけて気付かずにいただけで‥』
 そう考えると、今まで自分が乃梨子に示してきた傲岸不遜な態度が、ひどく身勝手だったと思えてきて、瞳子はここにいる事さえいた堪れなく感じてしまう。
 でも、ここで唐突に乃梨子の元を辞去したのでは、失礼に失礼を重ねるものである事ぐらいは瞳子にも理解できる。
 それに瞳子はもっと不可解な感情‥このままもう少し乃梨子の傍にいたいという気持ちを自覚していた。耳に心地よく響くはきはきとした乃梨子の声や肩に触れている優しい乃梨子の手の感触に身を委ねていたいと思っている瞳子がそこにいて、もう一人の瞳子を戸惑わせている。
『どうしたというのでしょうか? あんな事の後だから、瞳子はまだ乃梨子に寄りかかっているのでしょうか? それとも‥』
 お茶の時間は楽しかった。
もちろんお茶もお菓子も美味しかった。でも何よりも菫子のリードによる会話が素晴らしかった。傍でちょっと聞いているだけだと、菫子が一人で傍若無人、天衣無縫に喋り続けているように聞こえる。しかし、そこは年の功。菫子は瞳子と乃梨子の興味のある話題を探し出し、巧みにその方向に会話を誘導してみせる。瞳子がふと我に返ると、二人に向かって、夢中になって演劇の話をしている自分がいたりするのだ。

 冬の日が傾いていくのは早い。部屋が暗くなってきた事に気がついた菫子は明かりをつけながら、瞳子に話しかけた。

「おや、こんな時間かい。そろそろ瞳子ちゃん(いつの間にか『ちゃん』付けになっている)は‥」

 菫子の言葉に瞳子は少し体を硬くした。
もちろん、ファーストフード店で昼食を買い込む前に、瞳子は自宅に『友達の家でレポートをする』と電話を入れておいた。とは言え、年末の家出騒ぎから余り時間が経っていないから、瞳子の帰りが遅くなると両親が酷く心配するのは間違いない。
 でも瞳子は、今日の夜を一人ぼっちで過ごす事に恐れを感じていた。喪失や悔悟や混乱や‥様々な負の感情を抱えて、闇の中を独りで過ごすのは余りにも辛すぎる。
 プライドを自己憐憫で綴った瘡蓋で心を鎧う事によって、辛うじて孤独に耐えていたのに、もうその鎧は剥がれ落ちてしまった。
 何が起きたかを両親に話し、相談にのって貰うべきだろうか。
 いや、大好きな祥子さまと、そして(少なくとも自分自身に対してはもう、認めざるを得ないのだけれど)大好きな祐巳さまとの間に起した自らの愚かしさによるすれ違い、それも自分の出自が原因では、さらに両親に心労を重ねさせる事になり兼ねない。
 何よりも瞳子は、今誰かにそばにいて貰えるとしたら、乃梨子にいて欲しいと願っている自分に気がついている。

 今の状態のまま家に帰り、独りの部屋で安らかな眠りを得る自信はまったく無かったが、それでも瞳子は意を決して乃梨子と菫子に辞去の挨拶をしようとした。ところが菫子は意外な言葉を続けた。

「‥そろそろ瞳子ちゃんは、今日うちに泊まる事をお家に連絡した方がよかないかい?」

「はっ?」
「レポートが終わってないんだろう。うちは構わないから泊まっておいきよ。どうだい、リコ」
 菫子の思わぬ台詞に言葉を失った瞳子は、何らかの助けを求めるように乃梨子に目を向けた。乃梨子も同じ様にあっけに取られていたが、菫子の意味ありげな目配せを受け、瞳子の様子をちらりと見ると、殊更に明るい調子で菫子の提案に賛成しだした。
「珠にはいい事言うね、菫子さんも。せっかくもう少しって所まで整理が終わったんだから、片付けちゃいたいと思ってたんだ。ね、瞳子、よければ今日はうちに泊まっていかない?」
「『珠には』ってこたぁ無いだろう? 私は‥」
「結構ですっ!」
 鋭い声に驚いた二人が瞳子の方を向くと、瞳子は怒りを朱の如く注いだ顔で二人を睨み付けていた。瞳子は腰を浮かせながら、殆ど叫ぶような調子で続けた。

「す、菫子さま! 大変失礼とは思いますが、同情していただく必要はありませんわ! 瞳子はただ今すぐに失礼致しますから!」

 いきり立つ瞳子に一瞬、驚いた表情(微かに面白そうな気配を纏わせていたが)をした菫子は、即座にその表情を消しいつもの口調で答えた。

「同情? そんなモノしちゃいないねぇ。これは大人の判断って奴さ」

 菫子ののんびりとした声と、またもや意表をついたその内容に、瞳子の動きが止まった。
「大人の判断‥って?」
「大体、同情しようにも、私にゃ瞳子ちゃんの事情が分らないよ」
 顎を手で支え、のんびりとした調子を保って菫子が答える。
 それを聞くと瞳子は開きかけた口を閉じて目を伏せた。確かに自分の事情については、乃梨子にさえ話していない。いわんや菫子が知るはずは無いのだ。それなのに、瞳子は真っ先に、自分が同情を受けていると即断して、二人に対して怒りを顕わにしてしまった。
 瞳子は今度こそ、今の、そしてこれまでの自分の行動が、同情は嫌いだと言いながら、こっそりそれを待っている姑息な振る舞いと考えざるを得ないと思った。

 唇を噛んで俯いてしまった瞳子に菫子はいつもと変らない調子で話し続ける。
「ただ瞳子ちゃんの状態は分かる‥もしくは分ってるつもりなんだけどね。私もついこの間まであんた達と同じ様に青春を送っていたんだから」
「‥」
「誰かに傍にいて欲しい時ってあるもんさね。親や兄弟や肉親じゃだめで、勿論、見知らぬ他人なんて論外で‥場合によっちゃ、連合いや恋人でもだめな時もあるんだよ。あんたたちももう少しすれば分ると思うけど」
「そうなのかな‥」
 乃梨子が、何となく胡散臭げに呟くと、菫子がすかさず突っ込んだ。
「あんたは例外だよ、リコ。どんな状況でも‥世界中に誰一人いなくなっても、志摩子さんさえいれば幸せなんだろ?」
「そんなことないよ! 誰もいなくなっちゃったら、志摩子さんが悲しむもん‥多分」
 それを聞くと菫子は笑いながら言葉を返した。
「やっぱり、リコ本人は平気なんじゃないか」
「いやっ! だから‥」
 真っ赤になって反論しようとする乃梨子を遮ると、菫子は瞳子に向き直った。
「さて、例外は放っておくとして‥瞳子ちゃん、無理に薦めるわけにはいかないけど、よかったら泊まっておいきよ」
 そしてわざとらしい諦観をこめた一瞥を乃梨子に送ると、大きな溜息をついて更に言葉を続けた。
「まあ、こんな色ボケの姪で恥ずかしい限りだけど。それでも、いないよりはましだと思うよ‥」
「菫子さんってば、色ボケって何よっ!」

「事情は‥」
「ん? どうした、瞳子ちゃん」
 瞳子は意を決したように顔を上げて菫子を真正面から見詰めた。
「事情はお聞きにならないのですか?」
 その様子を見て、菫子も居住まいを正して答える。
「聞かないよ。たぶん、それはまだ瞳子さんだけのものなんだろう? 夜を徹して、とことん考えるもよし‥余り薦めない対処方法だけどね。それより、少し休んで‥そう、明日改めて考えるのはどうだい」
「明日‥」
「そうだよ。
  『明日を思い煩う事なかれ。
   明日は明日自らが思い煩うであろう。
   その日の苦労は、その日だけで十分である』
ってね。神さまだって一休みを奨励していらっしゃるんだ」
「マタイによる福音書6章34節‥」
「お、さすがは生粋のリリアンっ子だ。そう、瞳子ちゃんは今日一日、もう十分に考えたんだろう。後はゆっくり休むんだ。瞳子ちゃんにはその権利があると思うよ」

 菫子の言葉を聞いて、瞳子は漸く、自分が考える事にも、演じる事にも、疲れている事に気がついた。
 いくら瞳子が演技を愛していると言っても、延々と日常を演じ続けるのは楽な事ではない。しかも演劇のように演技そのものを目的としてならともかく、その陰で別の事を考え続けていたとなると、なおさらだ。
 かといって、演じる事で保ってきていた平衡が、独りではもう保てそうもないのも確かで‥だから、菫子の言葉を瞳子は心からありがたいと思った。
 でも問題はそれだけでなく、だから瞳子は、まだ逡巡せざるを得なかった。

 そうした瞳子の様子を見て、菫子が軽い調子で言い添えた。
「勿論、一人の方がよければ、私が送っていくがね」
 それを聞くと、瞳子は少し慌て気味に答えた
「そうじゃないんです。あの‥大きな声を上げた事は、すみませんでした。でも、あの、母が心配しますので、やはり‥」
「ふ‥ん。瞳子ちゃんとしては泊まっていきたいんだね」
「えっ? あ、その‥」
 自分の発した声の慌てた調子に気がついて、瞳子は更に慌ててしまった。だが菫子は瞳子の様子にはさしたる興味を示さない振りをしたまま、少し考え込むと世間話のような口調で瞳子に訊いた。
「瞳子ちゃんのお母さんはリリアン出身でいらっしゃるのかい?」
 菫子の話が自分の態度と何の関係もない事にほっとしつつ、瞳子は答える。
「え、ええ。うちの一族は代々、男は花寺、女はリリアンに進学する事に‥」
「へぇ〜。噂には聞いてたけど‥瞳子の家もそうなんだ」
 こんな話を聞くと、乃梨子は自分を『楽園の異邦人』と感じる。家訓として進学すべき学校が決まっているなんて‥その学校としてリリアンが選ばれているなんて‥高校からリリアンに進学した乃梨子にとって、リリアンはまだまだ驚かされる逸話に事欠かない楽園だ。

「やっぱりか‥。よし、解った。私に任せな」
 菫子は威勢よく立ち上がると、瞳子を廊下の飾り棚の固定電話に連れて行った。乃梨子が慌てて後を追う。菫子は瞳子に今時珍しいダイアル式の黒電話(菫子の趣味:ただしレプリカで中身は最新機能を搭載している)の受話器を渡しながら言った。
「お母さんに、うちに泊まる事を話したら、私に代わっておくれよ。乃梨子の保護者としてご挨拶するからね」
「は、はい。あの、でも‥」
 自信たっぷりの菫子の態度に、何となくきな臭い気配を感じて、乃梨子が菫子の袖を引く。
「菫子さん、どうするつもり?」
「リリアンの卒業生には普通、絶大な効果があるんだよ。元薔薇さまの威光って奴は。だからそれを最大限活用して。‥あとはまあ、お母さまの対応に合わせて、高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に‥」
「またそんな大雑把な作戦を‥本当に大丈夫なの?」
 使い慣れないダイアルをおっかなびっくり回していた瞳子が驚いたように振り向いた。
「た、多分、大丈夫ですわ。母はリリアンでの学生生活をとても懐かしく想っておりまして、その、事ある毎に私に嬉しそうに話しますし。そ、それより菫子さまは‥その薔薇さまで‥」
 驚きで目を見開いたまま、焦って吃り勝ちに話す瞳子に、菫子はちょっと悪戯っぽい表情で頷くと電話を続けるように促した。そして乃梨子の方を向くと、
「な、現役のリリアン生にさえ効果あるだろ?」
「みたいだね。リリアン‥侮れない楽園だなあ」

 瞳子は若干緊張気味に電話をしている。もっとも緊張の原因は外泊を伝える事ではなく、むしろ菫子が元薔薇さまである事らしい。
そんな瞳子を横目で見つつ乃梨子が菫子に聞く。
「にしても、わざわざこの怪しげな電話使わなくても携帯で‥」
「番号通知した時に固定電話の方が、向こうのご家族には安心して頂けるじゃないか。リコもまだまだ甘いねえ」
「菫子さんって策士。‥こっそりオレオレ詐欺とかやってるんじゃないでしょうね?」
 瞳子から受話器を受け取りつつ、菫子が乃梨子に格好いいウインクを投げて見せた。
「私がやるなら、相手が生涯騙されている事に気がつかないようにやるよ‥あんな粗雑な詐欺なんて‥。あ、瞳子さんに換わって頂きました。初めてのご挨拶を電話で失礼いたします。私、瞳子さんの同級生の二条乃梨子の伯母の‥」
 立て板に水の如く滑らか、かつ律動的で歯切れのいい菫子の弁舌が、瞳子の母を易々と説得しつつあるのが、傍で電話を窺う乃梨子にもよく分かる。
 瞳子は瞳子で何となくうっとりとした表情を浮べ、電話している菫子を見つめている。

「でもさ‥」
 自分の友達の事なのに、菫子に主導権を握られ、ちょっと面白くない乃梨子が小さな声で、相当タイミング遅れの突っ込みを呟く。
「『ついこの間まで青春を送ってた』って‥。瞳子のお母さんはともかく、菫子さんのリリアン・ライフって半世紀近く前の事じゃん。『ついこの間』って言うのは、幾らなんでも無理があると思うけどな」
 『半世紀以上前』と言わなかったのは、乃梨子としては精一杯の菫子への友情の証のつもりだ。
 もちろん、あっさり外泊の許可は出た。
 月曜日に乃梨子が瞳子に大丈夫だったか聞いてみると、
「ええ。『薔薇さまのお宅でしょ。何の心配もしなかったわ』って。それどころか、母ったら、元薔薇さまからの電話に大感激で、『是非お会いして直接ご挨拶させて頂けないかしら』って興奮していて、それを宥めるほうが大変でしたわよ」
との事で、菫子の策略は見事に図に当たった事になる。

 単なる外泊の口実のはずなのだけど、基本的に真面目な瞳子と乃梨子は瞳子の母に話したとおりに、電話の後は乃梨子の部屋に戻って物理のレポートの続きを始めた。
 二人がレポートを終えた頃、タイミングよく菫子の声がかかった。
 それは夕食の誘いだったが、どちらかというと夜食の時間に近くなっていた。
「私がうっかりしていて、遅くにおやつをとっちまったからね。夕食‥もう夜食かな‥はお腹にもたれない物にしたよ。もっとも二人は若いんだ。入るんだったら、遠慮なくおかわりしておくれよ」
 菫子が用意したのは、鯛茶漬け風に仕立てた煮麺(にゅうめん)。湯掻いた素麺の上に、胡麻と山葵を加えたタレに漬け込んだ鯛の切り身、小松菜、湯葉、花形に切った京人参、短冊の大根などを盛り付け、やや淡口の吸い加減に整えた出汁がはってある。あしらいはイクラと柚。
 育ち盛りの瞳子と乃梨子に一応気を使ったのか、二人には鶏の酒蒸しと温泉卵の小鉢が添えてあった。
「なんか‥この献立って、お酒の肴っぽくない?」
 乃梨子の軽いジャブに対し、菫子が質問を取り違えたふりをして引っ掻き回す。
「酒はダメだよ。あれはもう少し年を取ってからじゃないと、悩み事を解消する役には立たないからねぇ」
「だれも、お酒が欲しいなんて言ってないじゃん。‥あ、菫子さん認めるんだね。お酒飲んでる自分は年喰ってるって♪」
 ここぞとばかりに突っ込んだ乃梨子だったが、菫子にあっさり返されてしまった。
「何言ってんだい。だから私は楽しい酒しか飲まないだろ。私みたいな若造が、悩んでグラスを傾けるのはまだ似合わないよ」
 しれっとした調子で、そう切り返す菫子に脱力した乃梨子だったが、でも酔って不機嫌な菫子を見た事がないのも確かで‥この件に関しては、完敗を認めざるを得ない。
 乃梨子は『いただきます』の挨拶もそこそこに食事に専念しだした。

 瞳子は微笑みながら二人の様子を見ていた。
 最初は、乃梨子と菫子の遠慮会釈のない言葉のぶつけ合いにちょっと驚いたが、繰り返し二人のやり取りを聞いているうちに、それが二人のお互いの距離の測り方だと気がついた。
 親戚とは言っても、大伯母と姪孫では、日常的に一緒に過ごしてはいなかったはずで、だからきっと、一緒に暮らしていく為に必要な相互理解の手段の一つとして、ちょっと子供じみた口喧嘩紛いのやり取りの中でお互いの本音を伝え合うというコミュニケーションを見出したのだろう。
 『パパがあの時、『瞳子が感情をぶつけてくれてよかった』って言ってくれたのもそうなのでしょうか。瞳子の何かがパパに伝わったのでしょうか‥』
 分かったつもりになっていた事が実は何も分かっていなかった事が分かって、これからどうすればいいのか、瞳子はずっと不安を感じていた。
 『でも「どうすればいいのか」の答えは、もしかしたらすぐそばにヒントがあるような気がしますわ。私がちゃんと周囲を見ていさえすれば‥きっと』
 二人の様子を窺っている今の瞳子は、だから少し安心して、安心するとお腹が空いて、何だか穏やかな様子で箸を運びだした。

 菫子の料理は素晴らしかった。あっさりとした味付けながら下品にならない程度にだしの風味が効かせてあり、個々の食材の下拵えの絶妙さも相まって、美食に慣れているはずの瞳子も何度か感嘆の溜息をつき、菫子にレシピを確認していた。

 食事が終わると、交替でお風呂に入った。ちなみに瞳子の下着は菫子が友人の不意の宿泊用にストックしておいた物を借りた。
 それから菫子はピンクジン(よく冷やしたジンにアンゴスチュラ・ビターズを一、二滴)、二人はホットミルク(メイプルシロップ少々と香り付けにラム酒を一滴入れているから、強いて言えばホット・ラム・カウ)を飲みながら、もうひと時をおしゃべりで楽しく過ごした後、『おやすみなさい』の挨拶を交わすとそれぞれの部屋に引き上げた。
 乃梨子の部屋に布団を二組並べて敷いた。瞳子は乃梨子からヘアブラシやスキンクリーム(乃梨子といえど一応、基礎化粧品ぐらいは持っている。もっとも各種取り揃えたのは、高校に入ってお姉さまである藤堂志摩子と知り合って以降だけれど)を借り、乃梨子は勿論自前で、寝支度を整えた。
 乃梨子は瞳子に布団に入るように促すと、蛍光灯を消そうとした。が、何か気がついたらしく瞳子の方に向き直った。
「明かりは消しちゃう? それとも『茶色』がいい?」
「茶色?」
「ああ、蛍光灯の横の小さい明かりの事。お正月に祐巳さまがね‥」
 そこまで言った所で乃梨子は慌てて口を塞いだ。瞳子の方を見たりはしないけど、申し訳なさそうに次の言葉を捜している。瞳子は微笑みながら乃梨子に助け舟を出した。
「祐巳さまがどうなさいましたの?」
「あ、あのね、祐巳さまは小さい頃からそう呼んでたんだって。確かに明かりを小さくすると部屋の中が茶色く見えるけど‥ちょっと面白いよね」
 乃梨子は瞳子の返事に促されて、さり気無く話を続けた。でも実は乃梨子がとても心配している事に瞳子は気がついていた。だから、
「あの方らしいですわね」
 多少無理をしつつも、瞳子は自然な調子を崩すことなく乃梨子に答えてみせる。乃梨子はその様子にほっとして会話を続ける。
「で、瞳子はいつもどうしているの?」
「消して下さいますか? 明かりがついていますと眠りが浅くなってしまいますの」
「了解。じゃあ消すね。おやすみ」
 明かりが消えて瞳子の眼が暗順応する前に、乃梨子が自分の布団に潜り込む気配がした。もう一度、乃梨子の布団から「おやすみ」と声がする。瞳子も「おやすみなさい」と返事を返した。
 瞳子の目が暗がりに慣れて、部屋の中の様子がおぼろげに分かるようになったと思うと、もう乃梨子の布団からは規則正しい静かな寝息が聞こえてきた。
「乃梨子って墜落睡眠型なのですわね」
 くすりと小さく笑うと瞳子は少し体の位置を直し、天井を向くと眼を閉じた。

 もちろん瞳子もそのまますぐに眠るつもりだった。
 ところが目を閉じると、昼間の情景が脳裏に浮かんできてしまう。困惑して瞳子の真意を理解しあぐねている祐巳の顔、怒りを堪えて立ち去る祥子の顔‥そして自分が味わった自分自身への嫌悪や憐憫‥。まだ答えの出ていない悩みと苦しみ。
 寝付けないまま、目を開けると暗闇の中に見覚えの無い室内を微かに感じる。急いで目を閉じ体の向きを変える。考えない様にしようとすればするほど、瞳子を悩ませる問題が次々に心の表面にぽっかりと姿を現す。水面下に大きな質量を隠した氷山のように。
 瞳子が何度目かの寝返りを打った時、眠っていた筈の乃梨子が突然声をかけた。

「眠れないの? 瞳子」

 驚いた瞳子は取り繕うことも出来ず意味不明な返事をする。
「え、乃梨子? あの‥ですから」
 突然、乃梨子は立ち上がり、明かりを『茶色』にすると、自分の布団に戻らず瞳子の布団に素早く潜り込み、驚いている瞳子の手をしっかりと握った。
「他人の部屋だもんね。落ち着かないんだよ。これでどう? 眠れそう?」
「‥あの、ありがとう、乃梨子。その、ごめんなさい。‥つまり、瞳子は」
 何から話せばいいのか、どう表現すればいいのか、自分が示した(と思っている)醜態に慌てている瞳子の言訳は、要領を得ない指示代名詞と接続詞の羅列と化してしまう。焦れば焦るほど混乱していく瞳子の目にとうとう涙が滲み出した。
 その時、瞳子は乃梨子の気配がさらに強く自分を包み込んだのに気がついた。驚いて顔を上げるといつもの親しげな表情を浮べた乃梨子の顔が目の前にあった。

 瞳子をしっかりと抱き寄せた乃梨子は、瞳子の耳に口を寄せ静かに囁いた。
「話さなくていいから。瞳子が眠れるなら、それでいいんだからね」
「乃梨子‥ごめ‥」
「謝る必要もない。申し訳ないなんて思わなくていいよ。これは感謝の印でもあるし」
「感謝?」
 意表を衝いた乃梨子の返事に、瞳子は小首を傾げて乃梨子の表情を覗き込む。乃梨子は瞳子の真っ直ぐな瞳を避けるように(暗くてよく見えなかったけど多分間違いなく)赤くなった顔を逸らして、ぼそぼそと呟いた。
「前に私の事、友達って言ってくれたでしょ。‥だから、その、感謝の印みたいな」
「友達って‥。でも、瞳子はいつも乃梨子に失礼な態度ばかりとって‥」
 顔を逸らしたまま、乃梨子が続ける。
「それは構わない。瞳子は瞳子の思うように振舞えばいいよ」
「そんな一方的な関係は‥。こんな時だけ乃梨子に縋るだなんて‥」
「志摩子さんが前に聖さま‥志摩子さんのお姉さまに聞いたんだって。こうした事はその人を好きな事に対する付加価値だって。私もそう思う。好きだからそうしたいだけで、結局、自分の為なんだよ。今、少しでも瞳子の役に立てるなら、私はそれが本当に嬉しいんだもん」
「乃梨子‥」
「お、おやすみっ。この状態が苦しかったら適当に振り解いてよ。私は一旦寝たら、めったな事では起きないから遠慮なくね」

 言う事を言ってしまうと恥ずかしくなったのか、乃梨子は慌てて挨拶をすると瞳子を抱き締めたまま、あっけに取られている瞳子を残して眠りについた。乃梨子はすぐに小さな寝息を立て始めたが、幾ら何でも今度はたぬき寝入りだろうと瞳子は判断した。
 子供の頃を別にすれば、誰かに抱かれて眠る‥というか誰かと同じ布団で眠るなどという経験の無い瞳子は、このままでは眠れそうもない。かと言って、乃梨子が起きているのにその抱擁を振り解くのは、幾らなんでも失礼だ。
 だから乃梨子は乃梨子が寝入るまで待とうと考え、乃梨子の気配に気を配りつつ眠っているふりをする事にした‥はずだった。

 ‥でも、瞳子はその後の記憶が判然としない。
『きっと、瞳子もあのまま寝入ってしまったのですわね』
 小さく自嘲の溜息を漏らすと、瞳子は信じられないほどすぐそばにいる乃梨子の健やかな寝顔をもう一度見つめる。
 乃梨子は何も聞かなかった。
 ただずっと何気ない日常を保ったままで、瞳子のそばに居てくれた。
 その事を思うと何だかとても暖かい想いで胸が一杯になる。
 瞳子は、幼い頃に自分の出生に纏わる秘密を知ってしまってから、一度もしなかった事‥演技無しで誰かに甘えようとしている自分に気がついていた。 

乃梨子‥あのね、

明日になったらね、明日になったら、明日になったら‥瞳子は。
瞳子の足で、また走り出すから。
瞳子の手で、もう一度戦うから。

祥子さまにも、可南子にも、クラスや、演劇部のみんなにも‥部長にも。
そして‥祐巳さまにも。
ちゃんと向きあえるように頑張るから。

だから、
だから今は、

ちょっとだけ休ませて。
迷惑だって解っているけど、身勝手だって自分でも思うけど。
ちょっとだけ乃梨子に甘えさせて。
ちょっとだけ休むのを許して。

 瞳子はそっと乃梨子の胸元に頬を寄せると静かに目を閉じた。瞳子を優しく包んでくれている乃梨子の体温に心を委ねて。

(ほのぼのバージョンの)おわり

 一応、ここで終わりなんですけど、つい思いついて書いてしまったこの後があります。 でも微エロ展開ですので、ご自身の判断でお読み下さい。(って言ってもたいした事ありませんので、過剰な期待をなさいませんようお願い致します♪)
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あとがき

またまた企画の締め切りに遅れました。毎回毎回、本当に申し訳ありませんっ!
趣旨からお分かりの様に、この企画の締め切りは本来、聖典の『クリスクロス』発売までなのです。 ところが、例によって遅れてしまいましたので、コミケット71の打上げ時に のくたさまに泣き付いて締め切りを延ばしてもらうという体たらくです。
それにしても、瞳子ちゃんに乃梨子ちゃんと可南子ちゃんといういい友達がいてくれる事に、ここ数巻では本当にほっとさせられています。 そして『クリスクロス』ではいよいよ最後の直線コースに入って‥でも長すぎますよー、今野先生(涙)

次巻こそ(望んでいる形で)決着が付きますように。

それでは、読んで下さった方、本当にありがとうございました。