★プロローグ
『他人から見れば単なる冗談、でも‥だから、一度だけ‥』
アメリカ、ジョン・F・ケネディ国際空港、入国管理ブース。
日本人の女が審査を受けている。パスポートの年齢では22歳8ヶ月だが、どちらかというと少女という方がよく似合う童顔の持ち主である。
係官は事務的に質問を続けていた。
「 What's the purpose of your visit? 」(入国目的は?)
「 I‥I‥ 」
「 Sightseeing? 」(観光かしら?)
「 No‥ 」
係官はわずかに興味を示した。片方の眉を上げ、先を促す。
女は心持ち赤くなった顔を上げ、しっかりとした口調で言った。
「 I came to meet my sweetheart. 」(恋人に会いに来ました)
にっこりと笑って頷くと係官は少しくだけた調子で質問を続けた。
「 Where are you going to stay? His house? 」(どこに滞在するの?彼氏の家?)
「 Her flat. 」(彼女のアパートです)
少し驚いた顔をした係官は、納得顔でもう一度微笑み、滞在先の住所を確認すると、所定の手続きを済ませてパスポートを返した。礼儀正しく一礼して立ち去ろうとする女にウインクしながら祝福を送る。
「Have a nice Christmas in New York! 」(ニューヨークのクリスマスを楽しんでね)
「T, Thank you.」
福沢祐巳、冬のひとこま。
『わたしはあなたのとなりをあるく』
★12月23日 ―来訪―
小笠原祥子と福沢祐巳を乗せたイエローキャブはクイーンズボロ橋を渡り、マンハッタンの高級住宅街であるアッパーイーストに入っていく。午後遅い冬晴れの空の下、林立する摩天楼は澄んだ空気の中でくっきりとした長い影を落としていた。
「そう、祐巳は来年の3月には卒業なのね。リリアンに戻れる事になったのですって?」
今年、23歳になる祥子は、かつての完璧と言っていい、しかし硬質な印象だった美貌に、経験に裏打ちされた自信に基づく柔和さと溌剌とした女らしさ、それに健康的な艶やかさが加わり、今を盛りと咲き誇る大輪の薔薇のような女性へと成長していた。
「はい、高等部は空きが無かったのですけど、リリアン女子大の健康管理センターに就職できました」
祐巳は22歳、高校時代のトレードマークだった2つに結んだ髪をやめ、ミディアムロングのエアリーヘアに髪型を変えているため、やや大人っぽい印象になっている。しかし、小柄な体つきと愛くるしい童顔は相変わらずで、はたち過ぎに見られることは希だった。
「おめでとう、祐巳。よかったわ、あなたがリリアンに戻ってくれて」
祐巳は養護教諭の資格をとるため、外部の大学へ進んでいた。来年3月には卒業して、リリアンに4年ぶりに戻る事になる。
「ありがとうございます。でもお姉さま、そのおっしゃりようでは、まるでリリアンが私の家みたいですよ」
『でも祐巳、幼稚舎に入園するまでを別にすれば、祐巳の22年の人生でリリアンの外で過ごしたのはこの4年間だけ。リリアンが家といってもあながち間違いではないでしょう』
そんな事を考えて、祥子は微笑みながら答える。
「祐巳の所在がはっきりして安心したのよ。私が日本に戻って、あなたに会いたくなったらリリアンに行けばいいのね?」
「お姉さま、私はちゃんと連絡をとっているじゃないですか。メールに、手紙に、電話に‥所在が分からなくなる筈はありませんよ」
祥子はちょっと拗ねたふりをして、澄まし顔を前に向けたまま、祐巳をからかった。
「あら、分からないわよ。祐巳にすてきなボーイフレンドが出来たら、私の事なんてほったらかしになるかもしれないし‥でも、そうなっても、これで、私は物陰からこっそり祐巳を見ることぐらいはできるのですもの」
「ひどいです!そんな事あるわけありません!」
かなり本気で怒っているように聞こえる祐巳の涙声の返事に、祥子は少し慌てて謝った。
「そうね、ごめんなさい。冗談が過ぎたわね」
すると、今度は祐巳があせって、
「いいえ、すみません、お姉さま。大きな声を出しちゃって」
「祐巳をいじめて泣かせたのでは、クリスマスに招待した意味がないものね」
「そうですよ。ゲストは大切にして下さいね」
雰囲気を和らげようとした祐巳の軽口に祥子も合わせ、右手を上げて真面目な顔で宣誓の真似をする。
「はい、祐巳閣下。誓いますわ」
「よろしい、小笠原祥子さん」
真面目な顔をして見つめ合った2人はやがて、お互いを手で支えながら笑い崩れた。久しぶりに愛しい人と触れ合える距離にある幸せをかみしめながら。ただ、祥子は気付かなかったが、祐巳の笑い顔にはほんの少しだけよく分からない翳りが浮かんでいた。
祥子は高校卒業後、ニューヨークのコロンビア大学バーナードカレッジ(女子大)に留学した。その後、学部をスキップ(飛び級制度)を利用して3年で卒業して、隣接するコロンビア大学の大学院に進み、来年6月に卒業する予定になっていた。
例年ならば、年末は日本で過ごすのだが、普段のレポートに加え、修士論文の準備もあるため、今年は帰省の時間が取れなかった。
また、祥子にとっては、ニューヨークで過ごす最後の冬であるため、どうにかクリスマス前後だけ時間を作り、一緒に過ごそうと祐巳を招待したのだった。
車はマディソン街をしばらく北に進んだところで、西に向かって折れ、5番街に出ると停車した。道路の向こうには、すっかり葉を落とした木々で織り成された冬のセントラルパークが広がっている。冬至の低い日差しはすでに樹冠に差し掛かろうとしており、公園全体が穏やかな琥珀と橙色を帯び始めていた。
車から降り立った祐巳が延々と続く公園の木立に見とれている間に、祥子は車から祐巳のトランクを下ろしていた。
「祐巳、祐巳もやはり見とれたのね、私も始めての時はそうだったわ」
「ご、ごめんなさい、お姉さま。つい、ぼんやりしていて‥」
「町の真ん中に立派な森があるのですものね。雪が積もっていると、もっと綺麗なのよ。残念だけど、今年はグリーンクリスマス(雪のないクリスマス)になりそうね」
「いいえ、十分綺麗です。葉を落とした木立のシルエットが重なって‥銅版画みたいですね‥」
「そうね、四季を通じて、いつも、それぞれに美しい姿を見せてくれる公園だわ」
祥子は祐巳が公園から目をはなすまで待って、それから、目の前の古びた、しかし瀟洒な印象のビルを示した。
「そして、ここが私の住んでいるアパート」
「‥わあ」
「古いので驚いたでしょう?中は改装してあるから安心して」
「いいえ、すてきです。どっしりとして優雅で‥クラシックな感じですね」
「ブラウン・ストーン形式って呼ばれる19世紀末に流行った形式よ。出窓なんかはクイーン・アン形式だそうだけど‥。外観は歴史的建築物として保存されているから手を加える事が出来ないのですって」
そう言うと祥子は軽々とトランクを持ち上げ、アパートの入口への階段を登り始めた。
「あ、お姉さま、トランクは私、自分で‥」
「いいのよ、今日の祐巳はゲストなのでしょう?」
「でも‥」
祥子は空いた方の腕を祐巳の腕に絡めると、あの懐かしいぴしりとした調子で言った。
「ぐずぐず言わないの。たまにはお姉さまらしい事させて頂戴!」
祐巳は思わず、背筋を伸ばし、子供の様に元気のいい返事をした。
「はいっ!」
そんな祐巳を見て、祥子は微笑みながら一旦腕を解き、改めて、男が恋人をエスコートする時の様に、祐巳に腕を差し出した。祐巳は嬉しそうに、でもちょっと申し訳なさそうに差し出された腕に自分の腕を絡めた。
「でも、お姉さま、本当に重くありませんか?」
「大丈夫よ、基礎代謝量を上げるためにエクササイズで筋肉をつけたから」
「基礎代謝量、エクササイズ、それに筋肉‥ですか?」
「あら、基礎代謝量を上げる事はダイエットに有効よ。それに美しいプロポーションの基礎は筋肉なの。例えば乳房が下がるのを避けるには胸筋を鍛える必要があるでしょう?」
「いいえ、そうじゃなくて、お姉さまの様に、これ以上はないくらい整ったプロポーションをお持ちの方でも、そんな努力をなさるんだなあってびっくりしたんです」
すると、祥子は祐巳に笑いかけながら、
「だって、祐巳に嫌われたくないもの。みっともない体になって‥」
「そんな事は絶対にないと思いますけど、‥もし、万が一、そうなっても、そのせいでお姉さまを嫌いになったりしません!むしろ‥、自分のプロポーションのほうが心配です。最近、卒論が忙しくて、ちょっと運動不足で‥」
「祐巳は大丈夫だと思うわ。高校時代から骨身を惜しまず、よく体を動かしているもの。でも、そうね、心配なら一緒にジムに通いましょうか?私が日本に帰ってからになるけど」
「え、ええ、いいですね。その時はよろしくお願いします」
また、祐巳の返事には少しだけよく分からない逡巡が感じられた。祥子は、今度はそれに気付いたが、取りあえず、問い質したりするのは控えた。
『必要な事ならば、祐巳は必ず言ってくれるはず‥』
ビルの玄関では灰色のユニフォームを着た威厳のあるドアマンが出迎えてくれた。祥子は挨拶を交わし、祐巳を滞在客として紹介した。
ロビーを抜けると吹き抜けの小さなホールに出た。吹き抜けの周囲は回廊になっていて、アール・ヌーボ調の黒い鋳鉄の手すりが優雅な雰囲気を醸し出している。ホールの正面奥には回廊と同じデザインの手すりを配した階段が、左手前には、これは明らかに後から取り付けたとわかる鉄骨の骨組みで支えられたガラス張りのスマートなエレベーターがある。
ホールの天井には明かり取りの天窓があり、残照がホールにわずかに光を与えていたが、今の時間にホールを暖かく照らしているのは、ホールの右手にある4mほど高さのクリスマスツリーの電飾だった。オーナメントとして銀白色のボールとガーランドそれに頂上の大きな星だけを使ったシンプルでエレガントなツリー。祐巳は思わずそれを見上げていた。
「綺麗‥アメリカでは一大イベントなんだなあ、クリスマスは‥」
今通って来た町でも、至る所に、リースやクリスマスツリー、緑のモール、赤いリボン、金色のベル等のディスプレイが施してあり、ニューヨークのビルたちが競ってクリスマスの雰囲気を盛り上げているようだった。
エレベーター前から祥子が祐巳を呼んだ。
「祐巳、こっちよ」
「はい、お姉さま」
「これが取り付けられる前は5階まで階段で上っていたそうよ」
「大変だったでしょうね。お買い物とか‥あ‥」
「どうしたの?」
「お姉さま大丈夫なんですか?ガラス張りですよ」
「大丈夫よ、私の部屋は高々4階だわ」
でも、ケージに乗り込んでからの祥子の様子を見て、祐巳が祥子をからかう。
「でも、ガラスに背を向けて、一番離れた所にお立ちになるのですね?」
祥子は少し祐巳を睨みつけた。が、すぐ悪戯っぽい笑いを浮かべ、
「ええそうよ、でも祐巳がこうしてくれていれば大丈夫だわ」
と言うや、祐巳の肩をすばやく抱き寄せた。
「あの‥あの、そ‥そうなんですか?」
肩を抱かれた事で赤くなって慌てる祐巳を満足げに見ると、祥子はすまして4階のボタンを押した。ただ、祥子はさっきと同様に、祐巳の態度にほんのわずかだが違和感を覚えていた。
『やっぱり‥何か気になる事でもあるのかしら?』
祥子のフラットは80u程のJunior Four(1LDK+小さい予備室)である。
「ここよ、祐巳。さあどうぞ」
室内は若い女性の住まいにしてはかなり地味な印象だった。扉や床、腰壁、廻縁などは磨きこまれた栗材が使われていて、化粧漆喰でクリーム色に仕上げられた壁と相まって落ち着いた雰囲気を強調している。
入り口を入るとそこは小さなホールであり、奥は短い廊下を介してバスルーム、左手が広い居間になる。居間の正面には5番街に面した大きな出窓があり、セントラルパークの美しい木立が見える。居間の右手が寝室、左手前がキッチン、左奥が予備室として使えるアルコーブ(元々は壁の窪みの事、ここでは主室と一体で使える付属室を意味する)になっている。
祥子はホールで祐巳のコートを受け取り、コート掛けに掛けると、居間に祐巳を案内した。
居間には手前にソファとテーブル、窓際には重厚な書斎机とOA機器を収めたラックに、大きな本棚があった。本棚には祥子の専攻している経済学関係らしい部厚い洋書や学校関係のファイルが整然と収められていた。
祥子のフラットは住み手の性格を反映して、隅々まで、清潔で几帳面すぎるほどに片付いている。しかし部屋に付属している家具の落ち着いた意匠と色調、それに木材を多用した内装が、室内の印象を温かみのあるものにしていた。
余分な物が殆ど見当たらない室内だが、それでもクリスマスらしく玄関の扉にはヒイラギの葉と赤い実で作られた大きなリースが、居間にはクリスタルガラス製のオーナメントで飾られた小さな鉢植えの樅の木があった。祐巳が、
「クリスタルのオーナメントって初めて見ました。きらきら光って綺麗ですね」
とツリーを誉めると、
「クリスマスのデコレーションはよく解らなくて‥取り敢えずツリーとリースだけは飾ってみたの」
と祥子には珍しく、少し赤くなって、はにかみながら答えた。
話を逸らすように、祥子は寝室の扉を開け、
「祐巳、悪いけど私の寝室を使ってね。寝室が一つしかないのよ。シーツや枕カバーは全て新品だから」
「それは全然構わないんですけど‥。お姉さまはどうなさるんですか?」
「アルコーブにレンタルのベッドを入れたから、そこを使うわ」
「じゃあ、私がそちらを使います。お姉さまはご自分の寝室をお使い下さい」
「祐巳はゲストなのでしょう。すると私はホストという事になるわ。ホストはね、ゲストに最良の環境を提供したいものなのよ」
「そんな、申し訳ないです。やっぱり‥」
祥子はちょっと意地悪そうに微笑んで、
「あら、『ゲストは大切に』って言ったのは祐巳じゃない。諦めてホストの指示に従いなさい」
そう言うと、トランクごと祐巳を寝室に押し込みながら続けた。
「疲れたでしょう、楽な服に着替えるといいわ。ベッドの上に寝間着も一応用意しておいたから。右手前の扉はクロゼットだから好きに使ってね。シャワーを浴びるのだったら、右手奥の扉から直接バスルームに入れる様になっているから。その間に簡単だけど夕食を用意しておくわ」
「す、すみません。色々と」
祐巳の世話を焼くという状況をとことん楽しんでいる祥子は、にこにこしながら祐巳に、
「どう致しまして、何か御用がございましたらお声をおかけ下さい、祐巳さま♪」
と一礼すると、そっと扉を閉めた。
ほっと小さいため息をつくと祐巳は改めて室内を見回した。祥子の寝室にはセミダブルのベッドとサイドテーブル、ドレッサーとチェスト、本棚があった。寝室の本棚には、祥子が愛読している日本や英米の文芸書が、やはり整然と収められていた。寝室の家具も部屋に付属の物らしく、古典的で重厚なデザインだった。
居間との間仕切壁に暖炉(今は使われていない)が切ってあり、祥子はその上をサイドボード代わりに使っている様で、幾つもの写真立てが飾ってあった。写真は祥子の両親や、大学の級友や高校時代の友達などだが、一番多いのは祐巳の写真だった。
『お姉さま‥』
祐巳の胸に甘い切なさを伴った僅かな痛みが走った。
(主に武嶋蔦子が撮った)高校時代の写真、帰省した祥子と過ごした時の写真、祥子にせがまれて祐巳があげた写真、そうした祐巳にとっても懐かしい写真にそっと触れながら、祐巳は自分自身を叱咤した。
『今日から長くても4日間、大丈夫よね、きちんと振舞えるよね』