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「乃梨子!乃梨子!乃梨子!乃梨子!」
中庭で乃梨子に縋り付いて泣き出した瞳子を、そのまま帰すことなど出来ず、校則違反は承知でタクシーに乗せ菫子さんのマンションまで連れ帰った。
菫子さんは出張で明後日まで帰らないから、誰にも迷惑をかけずに済むだろうと思ったのだ。
それが土曜日の午後遅く。
乃梨子の部屋のベッドにふたりで並んで腰掛けたときにも瞳子はまだ泣いていた。
泣いているのにその手は驚くほどに冷たくて…。
まるで、氷の塊が体の中にあるみたいな感じがした。
乃梨子はなんとしても、それを溶かしてあげたかった。
…だから、そうしたんだ…




『寒い朝』
螺鈿




「絶望の色を知っている?」
乃梨子の腕の中で瞳子が言った。
瞳子は額を乃梨子の胸に押し当てて、胸郭を震わせる振動だけで、声を、心を、伝えようとしているかのようだった。
…地の底から響いて来るみたいだ…
乃梨子は肌を隙間なく寄せ合っているのに、それでも暖めることの出来ない人を哀しく思った。
1月の朝方は冷える。けれども、瞳子の肌の冷たさはそのためだけではないと思った。
触れ合っているお互いの肌は、太股も腹も二の腕も、ザラついて感じるほどに鳥肌が立っていた。
…暖めてあげたかったのに…
乃梨子の肌では瞳子の体さえも温めることが出来ない。
まして、こころのなかにある瞳子の涙の氷山をどうして溶かすことなど出来るのか…。
乃梨子は答える代わりに抱き締める腕にいっそう力を込めた。
すると、瞳子は嫌々をするように、乃梨子の胸に押し付けた額を小さく振った。
しかたなしに乃梨子はその哀しい質問に答える。
「黒、とか?」
瞳子は乃梨子の体を這い上るようにして布団から顔を出し、おたがいの鼻をくっつけるようにした。
顔が近すぎて、相手の目がひとつに見える。
胸と胸を押し付けあっているので、やはり声というより振動が直に伝わって来るようだった。
「絶望は、お日様の色をしているの」
「お日様の色?」
「眩しくて、見つめることが出来ないの」
膝を絡め直し、二の腕も絡めた。骨盤同士が当たって切ない痛みを覚える。
乃梨子は首をのけぞらせ、天を仰ぐように頭上を見た。
目覚まし時計があるだけだ。
…日曜の5時45分…
まだ、日は昇らない。けれど鳥たちはもう、天を目指している。お日様を目指している。微かにその声が窓から忍び入る。
…眩しい絶望…
乃梨子にはそれが、何なのか、誰なのか予想は付いた。
乃梨子が首をのけぞらせたので、少し左を向いた瞳子の頭が乃梨子の顎の下に密着するようになっている。
いまなら、乃梨子の喉の振動が瞳子の頭に直に響くだろう。
乃梨子も、低く声にならない声で瞳子に伝えた。
「その人が好きなの?」
瞳子はビクッと身を強ばらせ、乃梨子から離れようとしたけれど、膝と二の腕を絡め直しておいたので逃げることは出来なかった。
やがて、瞳子は諦めたように脱力し、乃梨子は再び、その重さと骨張った体が自分に預けられたことに暗い満足を覚えた。
「……」
瞳子の沈黙を乃梨子は肯定と受け取ったと知らせるために、話を続けた。
「ならば、どうしてそう言わなかったの?」
「…」
「好きな人に、好きって」
その瞬間、乃梨子にドスンと鈍い衝撃が…。
「グエッ」
瞳子は乃梨子の薄い胸板に頭突きを食らわせてきたのだ。
「なにすんのッ?!」
乃梨子が低い声で怒鳴ると、途端に甘えたようにまた嫌々をして頭を押し付けて来る。
「乃梨子は意地悪だ」
…おいおい、それは誰がどの口で言ってるのかね?…
絡めた腕をほどき、瞳子の髪を撫でる。
昨夜リボンを解いて、そのままだからもうロールの形を保っていない…。
「もう、拗ねるのはよせば?」
「乃梨子には判らないことよ」
「『判らなくても良いッ!』って、昨日言ったのは誰?」
「……」
「応援するよ」
瞳子はまた頭を上げて驚いたような顔をして言った。
「そんなッ!だって、わたしたちはもう…」
「良いじゃない、別に」
「こうしたかったらこうした。祐巳さまが好きだから好きだと伝える。同じことだよ」
瞳子は真っ赤になって怒った。『ふしだらよ』と叫んだから、ふたりともねと言ってやったら、また泣き出した。
「応援する。きっともっと仲良くなれる。いちばんの好き同士になれるよ」
瞳子は涙と鼻水とよだれを乃梨子の胸に盛大になびったけれど、乃梨子は嬉しかった。
赤ん坊のように、自分の胸に縋り付く瞳子が痛いほど愛おしかった。
あまりに激しく泣くから、瞳子の体温はもの凄く上昇した。
少なくとも体を温めてあげることは出来た訳だ。
…泣き止んだら直ぐに着替えさせないと風邪を引く…
…新しい下着は買ってあるから、あれを着せよう…
引きつるような嗚咽が、少しずつ少しずつ収まって、いつしか安らかな寝息に変っていく。
…すぐ起こすのは可哀想かも…
乃梨子は布団に隙間が出来ないように、瞳子の髪を撫でた手で、上掛けの乱れを少しずつ直した。
そうして、布団を軽く叩いていると母に寝かしつけられた幼い日のことを思い出す。
ポン、ポン、ポンとリズムを刻む乃梨子の腕。
泣き疲れて眠る赤ん坊のような瞳子。
その寝入ったと思った瞳子が、もう一度乃梨子に囁きかけて来たから乃梨子はちょっとびっくりした。
「どうしたの?今日は休みだから寝ててもいいのよ」
「あのね。瞳子は乃梨子から生まれたかったの」
「はあ?」
「こうして抱き合っていると、いつかわたしは乃梨子の中に溶けてしまうの」
「そして、もう一度赤ちゃんになって乃梨子から生まれて来るの」
「それで、リリアンに入って祐巳様の妹になるの」
…おいおい何言ってるんだ?…
瞳子は言いたいことを言うと今度は本当に寝てしまった。
乃梨子は言い返す機会を逃したまま、1月の夜明け前の冷えた部屋にひとりで残された。

床に脱ぎ散らかされた制服のポケットから、丸めた紙切れが転げ出ている。
その紙切れに書かれたことは、やがてふたりを新しい世界に連れて行くことになるのだけど、
いまはまだ夜明けは遠く、先駆けて天を目指す鳥たちの声だけが微かに響いていた。




神は天におわし、世はなべてこともなし
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